2013年12月21日土曜日

「野球におけるアマ・プロ関係の経緯と課題」要約

兵庫ブルーサンダース育成軍の記事を書く時に、実は同冊子を要約していたのだが、記事が長くなりすぎたのでだいぶカットした。でももったいないので、アップしておくw

日本野球協会のホームページに、「野球におけるアマ・プロ関係の経緯と課題」と題された小冊子がアップロードされている。発行所は、ほかならぬ日本野球連盟である。「プロ・アマ関係」とは、野球界で「プロ・アマ規定」と呼ばれるプロとアマチュアの交流禁止規定のことをさす。
http://www.jaba.or.jp/gaiyou/etc/a_p_keii.pdf


こうした規定は、昭和7年に文部省が野球統制令を施行したところからはじまる。野球統制令とは当時盛んになっていた学生野球に熱心に取り組みすぎて学生野球が興行化、商業化しつつあったことに文部省がストップをかけたものだ、

文部省は学生の本分は勉強で野球ではないとして試合や主催者を始めとして多くの規定を作った。そうした規定の一つに、文部省の承認なしにプロ野球選手との試合を禁止する規定があった。もっとも日本のプロ野球が始まるのは昭和9年である。昭和7年段階での「プロ野球選手」とは、当時たびたび来日していた大リーグの選手のことをさす。

野球統制令は昭和22年に廃止されるが、今度は社会人野球で問題が起きる。昭和24年に設立された日本社会人野球協会は、発足と同時に米国野球協会(アメリカのノンプロ野球の統制組織)に加盟を決定するのだが、この時連合国軍総司令部経済科学局長で米国野球協会日本支部長であったマーカット少将から「プロとノンプロの関係を明確にする必要がある」と言われてプロとアマの規定を作った。その中にプロと試合をしたり「同一の催し」をしたりすれば選手登録を抹消されるといった規定や、プロ選手が登録抹消後1年を経ないと加盟登録できないといった規定が含まれていた。

戦前には、昭和9年に設立された大日本野球倶楽部(読売ジャイアンツの前身)と社会人野球チームはたびたび対戦していたが、この規定ができたことで対戦は不可能となるのである。ただ、選手の移籍はできた。社会人野球協会とプロ野球界(セントラル野球連盟、太平洋野球連盟)は昭和26年に「選手の転出加入に関する協約」を締結し、選手移籍のルールが決められ、多少の変化を伴いつつも毎年協約が結ばれ、更新されていた。

しかし、昭和36年に事態は一変する。同年1月、社会人野球協会は例年通りのプロ野球との協約を求めたが、社会人野球側が年々制約を強めてきたのにプロ野球側が憂慮して、新しい協約の提案を行った。これに社会人側は受け入れなられないと回答したため、プロ側は協約締結を拒否することになった。一言で言えば、プロと社会人は無協約状態に陥ったのである。

お互い困ったものだと思っていたであろうその直後に、中日ドラゴンズが社会人野球の日本生命にいた柳川福三選手と契約し、入団させたことが社会人野球界を激怒させてしまう。これを柳川事件と言う。

社会人野球は、今後プロ野球の監督、コーチ、選手であった者は一切受け付けない。これまで短期間に限ってプロ野球からコーチを受けることを認めていたが、これも一切認めないと言うことになったというから、社会人野球界の怒りがいかに大きかったかがわかる。

社会人野球とプロ野球は断絶状態になり、両者が再び協議のテーブルにつくには、8年の期間を要した。その後、両者の関係改善がはかられ、現在ではシダックスの監督に野村克也が就任するなど、プロ・アマの垣根はだいぶ低くなっている。今年3月1日には日本野球連盟と日本野球機構がプロ・社会人交流試合の申し合わせ事項を締結し、多くの交流試合が行われている。


。プロとアマの交流はできないよりできた方がいい。これは野球関係者全員の共通認識と言っていいと思う。平成六年には、こうした歴史的経過を踏まえたプロ・アマ合同の全日本野球会議が結成され、「野球を愛する全ての団体が手を携え、技術の向上、指導者の育成、普及振興事業の充実を図り、競技者養成の組織化、野球環境の整備充実を推進する必要がある」点で一致しているのだ。